小国町 福運三社めぐり(鏡ケ池、けやき水源、小国両神社)

2012年 9月29日   小国町 福運三社めぐり(鏡ケ池、けやき水源、小国両神社)
 黒川温泉から南小国町を通り越し、小国町の中心街を通ると「鏡ヶ池」の案内標柱があり寄ってみました。「小国両神社」「ケヤキ水源の水神様」「鏡ヶ池の恵比寿様」にお参りすることにより幸運をもたらし、福を富ますと信心されてきました。また「小国両神社」では賽銭を福銭として貸出したそうです。今では三社のそれぞれに置かれたパンフレットにスタンプを押し「福銭」を貸してもらえる催しも行われています。
両神社と富くじ
 江戸時代の文政元年(西暦一八一八年}より両神社で「富くじ」を行うことが許された。この頃、宮原上町(現在の一番街)で造り酒屋を営む湊屋橋本順左衛門は、毎朝早起きして井川(現在のけやき水源)で手を洗い身を清め太古から湧き出る水を祀る水神様に自然の恵みを感謝した。そして小国郷の氏神である両神社へ参拝し、天下の太平と商売繁盛を祈ることを日々の勤めとしていた。
 ある日の朝方、湊屋順左衛門は、けやき水源に小さな舟が流れに逆らい入る夢を見た。湊に舟が入ることを吉兆と感じた、順左衛門は富くじを買い、見事に大乙〔一番くじ}を当てた。湊屋順左衛門の正夢の話を聞いた、郷内城
尾村市郎右衛門は、毎朝一里の道をけやき水源に通い、水神様と両神社に「一番くじ」を願って祈り続け心願成就し、両神社富くじと久住宮富くじに四回大乙〔一番くじ]を当てたのである。このことから、両神社の高橋宮・火宮の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになった。その後富くじは年毎に盛んになり、嘉永より安政年間まで十年間に七十六回も行われたと古文書に記載されている。明治維新となり、両神社の富くじは無くなったが、今も祈願者に開運招福を授けて下さるのである。』

鏡ヶ池
 醍醐天皇の孫娘、小松女院が恋人の清少納言の兄、清原正高を探し回る旅の途中、鏡を池に投げ入れたという悲恋の言い伝えのある「鏡ヶ池」です。
鏡ヶ池伝説
 都が奈良から京都へ移った平安時代の中期・(紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」の書かれた時代)醍醐天皇の孫娘、小松女院は、美男で横笛の妙手といわれる清少納言の兄、清原正高に密かに心を寄せていました。二人は、いつしか心通わせるようになりますが、帝の怒りをうけることになり、二人は都から、正高は豊後の国(大分県)、小松女院は因幡の国(鳥取県)と離されます。
 月日は過ぎ、正高を恋い慕う小松女院は、とうとう豊後の国へ正高を探しに出かける決意を固めるのでした。侍女十一人を従えて因幡を発し、はるばる山路海路を越え豊後に上陸、流浪漂泊の末、久住から小国の地におりたった一行は、祠の下から清い泉が湧いている、この池の近くの民家に宿をとりました。小松女院は、正高に恋い慕う己の姿を映し出す鏡を身代わりとして神仏に捧げ、鏡をこの池に投げ入れました。切なる女院の心を察した侍女十一人も各々鏡を投じて再会のできるよう祈りました。そののち村人たちは、この池を「鏡ヶ池」と呼ぶようになりました。 一行が次の下城の民家に泊まったとき、隨行の乳母が力尽きて亡くなりました。村人たちは、墓じるしに銀杏の木を植えました。現在、天然記念物に指定されている下城の大イチョウです。その後の足取りは、山を越え玖珠の地で正高に妻のあることを知り、とげられぬ悲恋の情にたえず、名もいう優しき三日月滝(繊月滝同)にはてました。
 肌身離さぬ鏡は女の宝、それを惜しげなく池に投じて恋人にめぐり合うことを祈った女院と姫を思う侍女の美しき心、幾久しく伝えたい。    (小国郷史より抜粋)』
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鏡ヶ池の恵比寿様
 平安時代、醍醐天皇の孫姫小松女院が、清少納言の兄清原正高公を慕って、当地を訪れこの池に大事な鏡を沈め、正高公に再会できるようにお祈リしたことは今に語り継がれている。
 室町時代になると両神社門前には市が立つようになり、細川公肥後入国後は、社会の安定とともに町ができ商家も並んだ。商家では早くから恵比寿様を「福の神」として信仰し、江戸時代中頃、高札場(前肥後銀行前)横に大きな恵比寿様がお祭りされた。
 商家の中に湊屋橋本順左衛門がいた。順左衛門は、毎朝けやき水源で体を清め、水神様に自然の恵みを感謝した。その後、両神社に天下の太平と商売繁盛をお祈りして朝食をとった。順左衛門は才覚・算用を旨として商売に励み、タ刻になると、その日の商売をこの恵比寿様に報告して一日を終わった。
 ある朝方、けやき水源に舟の入る夢から吉兆を感じ、その頃、両神社で始められていた富くじを買い一番くじを当てた。順左衛門は社会への恩返しとしてけやき水源や横町坂を石畳にし、宮原への水害を防ぐため石の堤防を作った。また、再度水源の夢に津江の鯛生や鹿児島の菱刈に金鉱を探しあてた。明治二十四年十二月二十八日、餅つきの残火から宮原の大半を焼いた大火災で湊屋も焼けた。その時、大人でも持てないと言われた湊屋の大金塊は消えていた。蔵跡を掘うて見なさいの遺言は今も生き統けている。』 
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富くじ六花園
 「鏡ヶ池」から逆方向の川沿いに行くと「富くじ六花園」という小さな公園がありました。そこには「歌会始 入選歌集」碑が入り口付近にありました。
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奥には水を引き込んだ池がありました。それをさらに川沿いを行くと「けやき水源」がありました。
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けやき水源
 樹齢千年と言われるケヤキの老木が水源の水に根元を洗われるように堂々と立っていました。水も綺麗で近くの方が水汲みに来られていました。
豊かな水の宮原・けやき水源
 小国町の中心地、宮原の中を流れる静川沿いには処々にケヤキが自生し、その木の近くには必ず湧水が見られます。水の恵みをもたらすと言われるケヤキの中でも、特にこの水源の大ケヤキは樹齢千年を迎えると言われています。この大ケヤキのおかげで湧水は枯れることなく続き、何百年にもわたり地域の人々は生活を営むことができました。今、このケヤキにも大きな穴が空き老いの時期と感じさせますが、老いて増々盛大に枝を広げ、春には枝いっぱいの新緑がまぶしくかがやきます。湧水のエネルギーと大木のエネルギーが一体となり、ケヤキ自らも元気なると共に訪れる人々にも安らぎと元気を与えています。さらにこのケヤキの穴をくぐることでより大きな生命のエネルギーを得ることができ、気力があふれてくるのを感じることができます。』

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 根元には大きな木の祠があり、横にある同じような穴へ抜けることができました。

小国両神社
 本殿は元禄2年(1689)に再建されたもので、大正2年に移築し拝殿、楼門が新築されたそうです。平成3年の台風被害を受け楼門は平成9年に再建されたようです。本殿は両神社と言われるように1つの社に二神が祀られていました。
御由緒 
 社記によれば太古の昔、高橋神、火宮神のご兄弟は父祖阿蘇大神より小国郷開拓の命を受け、農耕をお越し、衆庶に衣食住や殖産興業等の生活根源を教え、郷土開発先駆の多大な功績を残された。この御聖徳と御功績を敬仰し、第十六代仁徳天皇の御代に高橋大神を祀り、第十八代反正天皇の御代に火宮大神わ祀り、これより両神社(りょうじんじゃ)の御社名が始まったと伝わる古社である。   (小国両神社御由緒略記から抜粋)』
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拝殿                                   本殿
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神社の横には大きな杉の森(多賀神社?)があり、中には「お天神様」、「おぎをん様」などの小さな神社があり落ち着いた雰囲気を醸し出していました。                              三神杉
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干支の像も置かれていました。
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笹原家の庭と二つの文学碑
『笹原家は小国町の代表的旧家で、当主の芳介(俳号耕春)氏は若いころから文学に親しみ、特に小国は俳句が盛んであったことから、句作に励み高浜虚子の主宰する俳誌「ホトトギス」で活躍し、昭和34年に同人に推された。(後略)』
 道路沿いにあり駐車場となっているのでここに車を止めて歩きました。
                                   高浜虚子の歌碑
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                                       『火の国の火の山裾の山並の
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場 所
 地図の位置は、「けやき水源」の位置です。小国両神社は「多賀神社」隣です。

     
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