熊本市 夏目漱石の第三旧居

2010年 9月14日   熊本市 夏目漱石の第三旧居
 夏目漱石は1896年4月13日に熊本の第五高等学校の英語教師として赴任し、在熊4年3ケ月の間に6回転居します。この旧宅は第三回目に住んだ家で、熊本市新屋敷にあったものを昭和47年移築したものです。
 熊本洋学校教師ジェーンズ邸と同じ敷地内にあり、駐車場はこちら(旧居)側にあります。



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熊本洋学校教師ジェーンズ邸から
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夏目漱石の漢詩碑
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 菜花黄
  菜花黄朝暾  菜花 朝暾(ちょうとん)に黄に
  菜花黄夕陽  菜花 夕陽(せきよう)に黄なり
  菜花黄裏人  菜花 黄裏(こうり)の人
  晨昏喜欲狂  晨昏(しんこん) 喜びて狂わんと欲す
  曠懐随雲雀  曠懐(こうかい) 雲雀に随い
  沖融入彼蒼  沖融(ちゅうゆう) 彼の蒼に入る
  縹渺近天都  縹渺(ひょうびょう)として 天都に近く
  迢逓凌塵郷  迢逓(ちょうてい)として 塵郷(じんきょう)を凌(しの)ぐ
  斯心不可道  斯(こ)の心 道(い)う可からず
  厥楽自黄洋  厥(そ)の楽しみ 自(おのずか)ら黄洋(こうよう)たり
  恨未化為鳥  恨(うら)むらくは 未(いま)だ化して鳥と為(な)り
  啼尽菜花黄  菜花の黄を啼(な)き尽(つ)くさざるを
『「菜花黄」は、漱石在熊の明治三十一年の作でヽ五言古詩の漢詩である。この作品には、朝日や夕日を浴びて黄金色に輝く菜の花の美しさと、その上空で激しく嗚き尽くす雲雀のさえずりに心奪われる詩情が詠まれている。
 明治三十九年に発表された「草枕」でも、雲雀と菜の花は、第一章の重要な景物として描かれている。
 春は眠くなる。猫は鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼がさめる。雲雀の声を間いたときに魂のありかが判然する。雲雀の嗚くのは口で鳴くのではない、魂全体が嗚くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。』

次に展示されていました、漱石に関する事項を転記しておきます。
『明治29年(1896)4月13日、夏目漱石(29歳)は松山中学校から第五高等学校の英語の講師(のちに教授)として熊本に来ました。上熊本駅(当時は池田停車場)に降り立った漱石は、人力車に乗って新坂から熊本市内へ向かいました。その途中、眼下に広がる市街地の美しい景色に思わず感嘆し「熊本は森の都だ」と言ったと伝えられています。熊本時代の漱石は、英語教師にとどまらず俳句をたくさん詠み、指導者として五高生たちと近代俳句の会『紫瞑吟社』を結成し、熊本の俳壇に新風を吹き込みました。併せて、この時期、漱石の人間観・人生観は深まりました。そして名作「草枕」「二百十日」「三四郎」などの作品が生まれました。』
友人 菅 虎雄の家(薬園町) 明治29年4月~5月
  熊本に来て適当な家がなかったので、五高の同僚で友人の菅虎雄の家に約1ケ月寄宿しました。
            駄馬続<阿蘇街道の若葉かな
第1の家 光琳寺の家(下通町) 明治29年5月~9月
  この家で東京の中根鏡子と結婚式を挙げました。
              衣更へて京より嫁をもらひけり
 7月9日、教授に昇格しました。
              涼しさや裏は鉦打つ光琳寺

第2の家 合羽町の家(坪井町) 明治29年9月~30年9月
  この家は、新築の広い家で部屋もたくさんありましたが、家賃も高<13円もしま した。
              名月や十三円の家に住む
 漱石夫妻はこの家で初めて熊本の正月を迎えますが、五高の学生がどっと押し寄せて、慣れない鏡子夫人は大あわて。ご馳走が足りなくなってしまいました。
 正月来客の多さに懲りた漱石は、次の年末から正月にかけては旅行をすることにしました。
第3の家 大江の家(新屋敷)   明治30年9月~同31年4月
 熊本市新屋敷(現NTT病院付近)にあったものを昭和47年、現在地に移築したものです。
鏡子夫人(漱石の妻)は、「思ひ出」の中でこの住居について「来てみますとここは大層景色のいいところで家の前は一面の畑、この先が見渡す限り桑畑が続いて森の都といわれる熊本郊外の秋の景色はまた格別でした」と記しています。
「家主の落合東郭は慶応2年(1866)11月26日、託麻郡大江村(現熊本市)に生まれました。名は為誠(ためのぶ)。東大卒業後、七高、五高の教授を経て宮内省に入り、大正天皇の侍従を務めました。漱石は明治31年(1898)3月、落合東郭が帰住することになったためこの家から井川渕の家(第四の旧居)へ引っ越しました。昭和17年(1942)1月19日に死去。侍従、漢詩人。」
第4の家 井川渕の家(井川渕町) 明治31年4月~7月
 当時五高生の寺田寅彦(後の物理学者)は、友人の英語の点数が足りなくて落第しそうになりました。そして漱石に相談をしにこの家を訪れました。
            颯と打つ夜網の音や春の川(白川)
            湧くからに流るるからに春の水(水前寺)
第5の家内坪井の家(内坪井町) 明治31年7月~33年3月
 鏡子夫人が回想の中で[熊本で住んだ中で一番いい家]と述べています。ここでの生活は1年8ヵ月。熊本で最も長く住んだ家でした。明治32年5月31日、長女筆子がこの家で生まれました。
            安々と海鼠の如き子を生めり
その年の9月、同僚の山川信次郎と共に阿蘇中岳登山を試みますが、道に迷い下山します。この時の体験が、のちに「二百十日」とう小説になりました。
            行けど萩行けど薄の原広し
この第5の家は、現在「夏目漱石内坪井旧居」として公開されています。
第6の家北千反畑の家(北千反畑町) 明治33年4月~7月
            菜の花の隣もありて竹の垣
明治33年6月漱石は、国費で英語研究のため2年間、イギリスに留学することになりました。7月、4年3ヵ月に及ぶ熊本での生活を終え鏡子婦人・長女筆子と共に東京に向かいました。』

場 所
    住所 熊本市水前寺公園22-16    電話 (096)382-6076 (熊本洋学校教師ジェーンズ邸内)


第5の家内坪井の家(内坪井町)
 内坪井の家は当時の場所に、そのまま保存されていますので、こちらの方が夏目漱石旧宅として知られています。
 記事掲載したつもりでいましたが、紹介していないようですので、写真だけ掲載しておきます。
入り口付近
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座敷前の庭から  ここには明治32年長女筆子の産湯に使った井戸もあります。
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馬丁小屋 寺田寅彦が書生に入り込みたくて頼んだが、この小屋を見せられて逃げ出したという小屋です。
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この記事へのコメント

2011年05月19日 19:13
「熊本市 夏目漱石の第三旧居」について
大江村時代の漱石について調べていますが、この第三旧居の家の作りがわかる見取り図のようなものはないでしょうか。
熊NAVI
2011年05月19日 23:57
ウィンライさん こんばんは。
 訪ねた時の写真を見てみましたが、残念なことに見取り図はありませんでした。また機会がありましたら当たってみます。
2011年05月20日 08:42
早々に御返事有難う御座います。
俣野義郎が寄寓した『母屋と離れた別棟』について

漱石の思い出「上京」によると「母屋と離れて別棟の小さい離れがあります。それが書生さんの部屋でしたが、鼠が出てしかたがないから猫を貸してくれといって、三平先生(俣野義郎)猫を連れて参ります。部屋へ行って障子をぴしゃりぴしゃり閉める音がすると、やがて「玉々々」と猫を呼ぶ声がします。そのころはたしかに抱いて行って部屋の中に監禁したはずの猫は、いつの間にやら台所でテルの足に背をなすりつけながら、にゃんと鳴いているという徹底した間の抜け方です。」と記されています。

俣野義郎が寄寓したのは『母屋と離れた別棟』と書かれていますが、障子を閉める音も俣野の声も筒抜け、ネコもあっさりと台所に移動しています。別棟というよりは『建増し』に近かったのではないかとも思われるのですが、これに該当する建物/部屋も保存されているでしょうか。二段目の左の写真の向かって左手の別棟風のは厠でしょうか。

以上、宜しくお願いします。

当方、岡山ですが、一度、現地を訪ねて見たいと思っています。日曜日か祝日になると思いますが、休館日はあるのでしょうか。

熊NAVI
2011年05月20日 09:08
ウインライさん 
 ここにはそのような別棟はありませんでした。この説明はもしかすると第5の家内坪井の家の説明ではないでしょうか?内坪井の家には「馬丁小屋」と呼ばれ寺田寅彦が書生になりたいと頼み込んだが、この小屋を見てあきらめたという建物は現存しています。内坪井の家の紹介もしたつもりでいましたがされていなかった様で、一番最後に写真だけ掲載します。
2011年05月20日 11:41
この説明は、大江村401のもので間違いはありませんが、俣野義郎は、元々、漱石を五校へ斡旋した倫理学教官・菅寅雄の家に寄寓していました。しかし、明治30年8月、菅が病気療養のために非職して郷里の久留米に帰ったため、新たな下宿先として同年9月から、大江村401の漱石宅を紹介され、初めての書生になりました。翌明治31年7月に卒業して帝国大学に進学しています。

明治31年7月から漱石が移った内坪井町の家に下宿していたのは岡山県出身の湯浅廉孫と佐賀出身の行徳二郎でした。

私の印象では、大江村401には、ご指摘のように別棟は存在せず、建増しに近し「書生部屋」があったのではないかと思います。内坪井町の「馬丁小屋」は、20年以上前になりますが、感慨深く見学しました。有難う御座いました。

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