和水町 金栗四三生家記念館

2019年 4月 5日   和水町 金栗四三生家記念館
 NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公の一人で脚光を浴びている「日本マラソンの父」金栗四三の生家が記念館となっています。酒造業を営んでいたということで大きな家で、土間には大樽も並べられていました。ドラマでも話題になった「学校部屋」も窓越しに見ることができ、ここで四三が勉強していたんだと思うとほほえましくもなりました。
この家こそ、金栗四三のスタート地
 玉名郡春富村中林(現和水町)で、代々つづく旧家・金栗家。1891年(明治24年)、ひとりの男の子がうまれました。このとき父・信彦が43歳だったことから、四三と名づけられました。金栗家は、父信彦の4~5代前から酒造業を営んでいましたが、病弱だった父の代で廃業、そののち、四三の長兄・実次が村役場につとめるかたわら、田畑の仕事にも精をだし、父・信彦、母・シエ、祖母・スマ、そして7人の兄弟の暮らしを支えました。』

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kanakuri19040503.JPG実兄・実次の想いと「学校部屋」
 ここから、玄関の土間をふりかえってみてください。そのすぐ左手に、2帖ほどの板張りの小部屋があります。ここは、家族みんなが『学校部屋』と呼び、四三が高等小学校卒業までの8年間、勉学にはげんだ場所です。表向きの格子戸にそって机をおき、四三は毎日、学校から帰ると、ここで声を張りあげて、読み方(朗読)をしました。まわりでは四三を「努力家」「頭がいい」とほめていました。当の四三は、厳しい反面、自分に期待をかけてくれる長兄・実次の想いにこたえたい一心で、勉学にはげんでいたのです。今回、玄関横の窓越しに「学校部屋」の様子を見ることができます。』
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kanakuri19040505.JPG「マラソンの父」と呼ばれる由縁
 「マラソンの基礎をつくったのは、高等小学校時代の片道一里半(約6km)の通学」と、後年、四三が語るように、この生家で過ごした幼少の日々に、マラソンの父・金栗四三の原点はありました。
 ここから東京へ、そして、日本人初のオリンピック出場を皮切りに、世界へと飛躍していきました。現在の日本マラソンはもとより、日本スポーツのいしずえを築いた四三ですが、生涯で走った距離は、約25万kmといわれています。これは、地球6周と4分の1に相当する途方もないものです。』
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kanakuri19040512.JPG『片道1里半(6㎞)の韋駄天通学
1901年(明治34年)に、玉名北高等小学校(現南関第三小学校)に入学した四三を待っていたのは、近所の生徒との『尊駄天通学』でした。ここから学校までの距離は、峠を越えるような、起伏にとんだ片道1里半(約6km)。走ることに自信のなかった四三は、舗装もされていない石ころだらけの道を、上級生を必死に追いかけました。やがて、通学になれてくると、四三は上級生を追いぬき、先頭をきって走るまでになりました。『マラソンの父』金栗四三をはぐくんだこの通学路は、現在、『金栗四三ロード』と呼ばれています。』                                
kanakuri19040511.JPG昔の酒造りのイメージ
kanakuri19040509.JPG休憩ゾーンにはNHK大河ドラマ「いだてん」のバネルが展示されていました。
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場 所
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この記事へのコメント

2020年01月01日 11:58
2019年 9月30日   和水町 野田地区・和仁川沿いのヒガンバナ(2019年)
 野田地区の前に流れる和仁川沿い約1㎞(中学校橋~弥生橋~上流)に渡って満開の素晴らしいヒガンバナを見ることができました。田圃の土手にもそんなに多くはありませんが花を咲かせているのが見られました。場所は春に桜で紹介した対岸でした。
 また、金栗四三生家記念館への入口付近にも、まとまったヒガンバナを見ることができました。