高森町 含蔵寺の梅園(2017年)
2017年 3月22日 高森町 含蔵寺の梅園(2017年)
山門前の梅園が満開に花を咲かせ、久々に見事な梅を見られました。境内にも梅や肥後椿などが花を咲かせていました。奥の梅畑の奥にも大きな肥後椿が真っ赤な花を咲かせており、見応えがありました。
高森城主の菩提寺であった含蔵寺、島津との戦いに敗れ戦火に焼失してしまいましたが、細川藩主の保護もあり南阿蘇(南郷)の古刹となっています。
『史跡 起雲山含蔵禅寺
永平寺派曹洞宗の古刹、もと天台宗で鎌倉時代の創建と伝えられる。代々高森藩主の香花院であったが、天正の兵乱で堂宇を焼失した。貞亨3年(1686)中興第一世納明海禅師、禅刹に改め復興した。第三世独葥卓立禅寺は徳望高く、藩主細川宜紀唐山を信倚し、30石の知行、九曜の紋章、起雲山の扁額を寄進した。境内約1万坪、閑雅幽邃南郷随一の名刹である。附属観音堂は、阿蘇33ケ所巡りの19番札所、子供の守り本尊として崇敬されている。
また、城主高森伊予守惟直の墓、家老・武田大和守元実、近侍・三森兵庫守能因、歴代和尚の墓等がある。近年融資により安部小壺等の句碑も立てられた。
高森落城は天正14年(1586)正月23日、附近の虎御前原、高森殿杉は惟直主従自刃の地、千本には寄手の対象深水摂津神頼則の墓がある。』
『当寺は鎌倉時代の創建と伝えられ、もとは天台宗で高森城主代々の菩提寺、天正年問高森落城の際兵火にあい、その後禅刹に改められた。
境内に高森城主、高森伊予守惟直(惟居)の墓、惟直遺愛のウスギモクセイ(樹齢数百年)、武田大和守元実及び三森兵庫守能因の墓、歴代和尚の墓があり、阿蘇33札所の1である観音堂がある。(29番)
又伝土佐光信作「出山釈迦の画像」、伝真海和尚作「達磨大師の画像」等がある。』
アオモジとサンシュウも咲いていました。
高森城主高森伊予守惟直と三森兵庫守能因の墓 家老・武田大和守元実の墓
境内には肥後椿などの椿が見られ、高森惟直が愛でた木犀もこんもりとした姿を見せていました。
奥の梅畑
その奥に1本の肥後椿がたくさんの花を咲かせていました。
場 所
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高森城主の菩提寺であった含蔵寺、島津との戦いに敗れ戦火に焼失してしまいましたが、細川藩主の保護もあり南阿蘇(南郷)の古刹となっています。
『史跡 起雲山含蔵禅寺
永平寺派曹洞宗の古刹、もと天台宗で鎌倉時代の創建と伝えられる。代々高森藩主の香花院であったが、天正の兵乱で堂宇を焼失した。貞亨3年(1686)中興第一世納明海禅師、禅刹に改め復興した。第三世独葥卓立禅寺は徳望高く、藩主細川宜紀唐山を信倚し、30石の知行、九曜の紋章、起雲山の扁額を寄進した。境内約1万坪、閑雅幽邃南郷随一の名刹である。附属観音堂は、阿蘇33ケ所巡りの19番札所、子供の守り本尊として崇敬されている。
また、城主高森伊予守惟直の墓、家老・武田大和守元実、近侍・三森兵庫守能因、歴代和尚の墓等がある。近年融資により安部小壺等の句碑も立てられた。
高森落城は天正14年(1586)正月23日、附近の虎御前原、高森殿杉は惟直主従自刃の地、千本には寄手の対象深水摂津神頼則の墓がある。』
『当寺は鎌倉時代の創建と伝えられ、もとは天台宗で高森城主代々の菩提寺、天正年問高森落城の際兵火にあい、その後禅刹に改められた。
境内に高森城主、高森伊予守惟直(惟居)の墓、惟直遺愛のウスギモクセイ(樹齢数百年)、武田大和守元実及び三森兵庫守能因の墓、歴代和尚の墓があり、阿蘇33札所の1である観音堂がある。(29番)
又伝土佐光信作「出山釈迦の画像」、伝真海和尚作「達磨大師の画像」等がある。』
アオモジとサンシュウも咲いていました。
高森城主高森伊予守惟直と三森兵庫守能因の墓 家老・武田大和守元実の墓
境内には肥後椿などの椿が見られ、高森惟直が愛でた木犀もこんもりとした姿を見せていました。
奥の梅畑
その奥に1本の肥後椿がたくさんの花を咲かせていました。
場 所
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