水俣市 徳富蘇峰・蘆花の生家

2010年 9月18日   水俣市 徳富蘇峰・蘆花の生家
 水俣市役所前から川端を湯の児温泉に向かう交差点に「徳富蘇峰・蘆花の生家」「徳富蘇峰のお墓」と案内がありましたので寄ってみました。生家は交差点を左折、少し行って右折した所にありました。父親の一敬(淇水)は武士だったので、こんなに大きな商家造りの家とは思ってもいなかったです。玄関に入ると蘇峰夫妻、蘆花夫妻の大きな写真が出迎えてくれました。
商家らしい土間があり、部屋の黒光りした柱等が印象的でした。
現地説明
『建物の概要
 徳富蘇峰・蘆花の生家は、二人の誕生した家(蘇峰は文久3年母の実家で誕生、蘆花は明治元年当家で誕生)としての歴史的価値と江戸時代中期の商家である建築的価値とを合わせ持った貴重な文化財です。徳富一家は明治3年熊本に移り、明治22年からは代々西村家の商家(屋号:衣屋)として受け継がれてきました。現在の建物は、徳富家時代の建物3棟(生家主屋、生家蔵、はなれ)と西村家時代の建物2棟(衣屋主屋、衣屋蔵)の5棟です。敷地の南西に位置するのが「生家主屋」で、寛政2年(1790)年の建築、この生家主屋の北側に建つのが「生家蔵」で文化8(1811)年の建築です。この生家主屋と生家蔵は、ほとんどが「タブ」と呼ばれる木材でつくられており、非常に珍しいものです。生家主屋の東側に接して建つのが「衣屋主屋」で、明治末期頃の建築と想定されます。衣屋主屋北側には、徳富家時代の建物を曳家したと考えられる「はなれ」が一部改造されて接続しています。生家蔵東側の建物は明治29(1896)年建築の「衣屋蔵」です。』
『徳富猪一郎(蘇峰)  (ジャーナリスト、政治評論家、歴史家、文筆家、水俣市名誉市民)
 文久2年、母久子の実家で出生し、明治3年熊本の大江村に移るまでの8年間をこの家で過ごしました。19歳のとき大江義塾を開き塾長となり、23歳で出版した「将来之日本」が出世作となり上京しました。「民友社」を設立し、雑誌「国民之友」、その後念願の「国民新聞」を創刊して日本言論界に不動の地位を築きました。一時政界に入り、後にまた著作活動に専念し、55歳から34年の歳月をかけて「近世日本国民史」を完成させました。明治、大正、昭和の三代にわたり日本のリーダとして多彩な活躍を続け、昭和32年11月2日、熱海晩晴草堂で95年の生涯を閉じました。』
『徳富健次郎(蘆花)
 明治元年、徳富家の末っ子として水俣で出生し、3歳まで此処で過ごしました。兄蘇峰に続いて、同志社に入学し、のち民友社社員となり翻訳、評論等を執筆し、明治33年代表作となる「不如帰」「自然と人生」を出版して文壇的名声を確固としました。明治36年、兄との意見の相違によって、国民新聞社を辞め、黒潮社を設立して「黒潮」を自費出版し世間の反響を呼びました。明治、大正を通じて文学者として一世を風びした大文豪でありました。昭和2年9月18日、伊香保「千明仁泉亭」で永眠しました。臨終の前に兄蘇峰と15年ぶりに対面し、心を和らげるに至ったことは、それ自体葛藤の歴史とも言える蘆花の生涯を締めくくるにふさわしい最期でした。』

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徳富蘇峰夫妻のお墓
 お墓は交差点を右折し、角に案内杭がありますので、右折して細い道を上ります。お墓入口には案内は無かった?ので分かりずらいかもしれません。
「死後一片の骨にても郷土水俣に埋めたい」とのご希望によって分骨されたものだそうです。
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場 所
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