玉東町 吉次公園・半高山の桜

2008年 4月 8日   玉東町 吉次公園・半高山の桜
 西南戦争の薩摩軍の陣地があった場所で、壮絶な吉次峠をめぐる戦いが行われ「地獄峠」と呼ばれたそうです。峠の脇に「吉次公園」、向かい合うように半高山があり、それぞれに桜が咲いていました。戦跡に桜を植えられた方々の気持ちも伝わってくるようで、戦いに散った人達をいつまでも平和に見守って欲しいものです。
吉次公園
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現地説明 「吉次峠激戦の地」
『明治10年(1877)2月26日、寺田の戦いに敗れた熊本隊一番小隊佐々友房は撤退しこの吉次峠に拠る。佐々は慨然として隊士に向い「あ〃吉次は城北随一の要害である。今これを失えば百の西郷あるとも熊本は保つべからず。」という。従うもの感泣して倶に死守を誓う。佐々は刀にて傍らの木を削り、「敵愾隊悉死此樹下」と刻して防備にあたった。4月1日官軍進出し、攻め上がる官軍を阻止していたが、半高山が破れて、さしも地獄峠と恐れられた吉次峠の守りを徹して三の岳山中に陣を移した。また熊本鎮台の密使伍長谷村計介はこの付近の山中にて捕らえられたが逃走して3月2日船隅の官軍本営にたどりつき使命を果たした。計介の記念碑は参道の中腹にある。なお、ここにある記念碑は佐々友房作の詩歌で、かっての教え子安達謙蔵の書である。』
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半高山
下からは頂上に桜が咲いているのが見えます。
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半高山から吉次公園を望む
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現地説明 「半高山戦跡」
『この山は三の岳の半分の高さなので半高山と呼び、標高293mである。明治10年(1877)3月3日、官軍は払暁の濃霧を利用して、この山を不意に襲い、右翼に支援部隊を増加して、山麓の火砲の援護射撃により占領した。しかし、薩将村田、篠原は逆襲して奪回した。4月1日植木方面の交戦がしばらく止んだ。この間、官軍は吉次付近を急襲して一挙に木留を突破して熊本に進出せんと、二俣横平山より前進して半高山頂の薩軍陣地に肉薄した。薩軍もこれを察知して激戦となる。元来薩軍の困るものが3つあり、1つは雨、2つは赤帽、3に大砲といわれ、赤帽とは近衛兵で、それは近衛兵の勇敢さいったものである。官軍は「近衛兵の名誉を汚すな」と叱咤激励して薩軍に突入した、このため薩軍も遂に木留方面に敗走した。』

場 所


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