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zoom RSS 阿蘇市 市立体育館付近の桜(2015年)

<<   作成日時 : 2015/04/19 04:00   >>

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2015年 4月 7日   阿蘇市 市立体育館付近の桜(2015年)
 体育館前の通りに沿って染井吉野が有るのですが、既に散ってしまっていました。案内看板があり、この付近は内牧城、後に内牧御茶屋が置かれた場所のようで、二の丸、三の丸だった辺りが公園になり、古川が池のように残されています。そこに枝垂れ桜が5、6本あり綺麗に咲いていました。白い枝垂れ桜が珍しいですね!
内牧城本丸跡・内牧御茶屋跡
 内牧城は天文年間(1532−1555)の頃に築城されたと伝えられ、天正14年(1586)の薩摩の島津氏による阿蘇侵攻で落城と伝えられています。
 その後、豊臣秀吉の天下統一で加藤清正が肥後に入国し、家臣の加藤右馬允可重を初代とした城代3人が赴任しました。江戸幕府が成立すると、元和元年(1615)に一国一城令が出されて内牧城は廃城となりました。浄信寺の山門と明行寺の門は、廃城の際に城門の一部を移したものと伝えられています。
 内牧城は古川と黒川を水濠とした典型的な平城で、内牧の町内には「本丸」「二の丸」「三の丸」の小字が残っており、ここは「本丸」にあたります。
 加藤家にかわり肥後藩主となった細川家は、本丸跡に参勤交代で宿泊するための内牧御茶屋を設置しました。維新後の明治2年(1869)には手永会所も御茶屋に移されましたが、2年後には廃藩置県が実施され、細川落の施設としての役割を終えました。
 本通り(参勤交代道)は現在の県道で、それに面して大門があり、その奥に大杉と本門がありました。大門と本門の間の左右に石垣と桧が続き、藩主一行宿泊の際は、門前の通りは通行が禁止されたといいます。
 平成6〜7年には内牧中央線の改良工事に伴う発掘調査が行なわれ、内牧城の頃と思われる施設の跡が見つかりました。御茶屋の痕跡はほとんどなく、開発によって消滅したと考えられます。』

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勝海舟、坂蔵本龍馬歩いた豊後街道
 1864年に坂本龍馬などをつれて佐賀関に上陸し、長崎へと旅しました。その道中に、ここ内牧へ立ち寄り、勝海舟が左(下)の日記を遺しています。
勝海舟日記のくだり(略) 
 文久四年二月十九日  山上より阿蘇嶽を見る。この嶽に並び立たる高峰あり。猫が嶽と云う。人跡至らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。妙義山に比すれば、更に一層の奇峯なり。
 内牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。また、人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず。内牧よりニ里、的石村あり。ここに領主小休の亭あり。質素、庭は山泉一面に流る。夏に宜し。北に北山あり、南に阿蘇あり。阿蘇の脚甚だ広く、田野あり。       元治元年四月七日  帰絡出立、内の牧に宿す。』

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