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zoom RSS 宇土市 宇土城址の桜(2014年)

<<   作成日時 : 2014/04/10 05:00   >>

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2014年 3月28日   宇土市 宇土城址の桜(2014年)
 小高い場所に、本丸でしょうか広場があり、それを取り囲むように大きな桜が満開となっていました。直ぐ下には宇土高校もあり、高校生らが花見に来ていました。

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キリシタン大名・小西行長の居城 近世宇土城跡(城山)             昭和33年3月14日 市指定史跡   
■キリシタン大名・小西行長
 永禄元年(1558)に大阪の堺の豪商・小内隆佐の子として京都で生まれ、秀吉の側近として水軍を率いて活躍。国衆一揆(肥後の武士層が起こした反乱)後の天正16年(1588)、宇土・益城・八代などの肥後南半分(約14万6千石)の領主として宇土lを本拠としました。
 入国翌年の築城開始後、文禄・慶長の役(1592〜1598)で先鋒として2度にわたり朝鮮半島に出陣しており、実際に宇土lで活動した時期は1年半程度と考えられています。慶長5年(1600)、西軍に属した行長は関ヶ原合
戦で敗戦。京都六条河原で処刑され、42歳の生涯をとじました。
■近世宇土城跡の概要
 織田信長や豊臣秀占の時代に築かれた礎石建物や高石垣などで構成される規格化された城を織豊系城郭と呼んでいます。宇土城は熊本を代表する織豊系城郭で、江戸初期に幕府の命令により2度にわたる破却を受けたため不明な点がありますが、縄張り(城の測量図)の検討や発拙調査の成果、絵図の検討などから往時の宇土:城の姿を推定することができます。
 宇土城は幅約20mの堀で囲まれた本丸(標高約16m)を核として、ニノ丸や重臣が居住した三ノ丸を幅約30〜40mの大規模な堀で防御し、本丸北側に家臣屋敷群を整備するなど、本丸を中心とする堅固な城郭でした。さらに、本丸の北側には、緑川河口部に通じる運河が開削され、船が行き来したと考えられています。まさにイエズス会宣教師から「海の司令官」と呼ばれた行長らしい城といえます。
 関ヶ原合戦後、清正は宇土城を自身の隠居所とするために大規模な改修を行いましたが、隠居することなく慶長16年(1611)に亡くなりました。清正の死の翌年、幕命により城は破却され、寛永14年(1637)の天草島原の乱後にも徹底的に破壊されました。
■本丸の発掘調査
  本丸の発掘調査(昭和53〜57年)の結果、門跡や礎石建物跡、排水溝跡、石垣などの城郭遺構を検出し、上層期遺構と下層期遺構の2時期の遺構の存在や、本丸の平面プランがおおむね明らかになりました。
 上層期遺構は加藤清正の改修に伴う城郭施設、下層期遺構は小西行長が築造した当時の城郭施設に対応すると考えられます。つまり、小西時代の城郭施設は、加藤期改修に伴う盛土(1m以上)や石垣普請などによって内部に完全に埋めこまれたことが判明しました。
  また、瓦や国内製・中国製の陶磁器など、当時使われていた貴重な品々が豊富に出土しました。
■塩田家臣屋敷群(城山塩田遺跡)について
 家臣屋敷が存在したとされる本丸北側一帯の古城町字塩田には、明治時代の字図や終戦後撮影の航空写真から、碁盤の目状に堀がめぐる屋敷群跡や運河の跡と想定されろ痕跡が残されていました。
 このことを険証するための発掘調査(平成12年)で屋敷地を囲む大小の堀跡を検出し、建物の部材や日常生活で使われていたとみられる陶磁器が出土、幻の家臣屋敷の存在が実証されました。南北万向の6筋の道は等間隔(約40間〔約72m〕)で敷設、その道沿いに生前と並ぶ屋敷地は間口が狭く奥行が長い長方形(短冊形地割)で、極めて計画的な造成が行われたことが判明しました。
■近世城下町の形成と特徴
 宇土城下については、16世紀代の名和氏段階にある程度できていたとみられる城の東側の町筋を城とセットとして整備し、本町筋や新町筋沿いには商工業者らが居住していました。さらにその東側には、物流の要だったと考えられる宇土川(船場川)や「外構」として城下町を守る石ノ瀬城(加藤軍による宇土l城攻め[1600年]の激戦地が配
されました。
 行長入国以前の肥後においては到底考えられなかった城と家臣屋敷、町屋がセットになり身分的な階層関係が反映された城下町が、いち早く宇土の地に出現したことは歴史的に重要なことです。
 行長が理想とする領国経営の拠点として機能するはずだった宇土l城。宇土を中心とし、九州全体の支配まで視野に入れていたと考えられる行長の夢は、関ヶ原合戦の敗戦により志半ばで途絶えたのでした。』

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小西行長                       元禄元年(1558)頃〜慶長5年(1600)
 安土桃山時代のキリシタン大名。幼名は弥九郎,洗礼名はアゴスチノ。父は小西隆佐。兄に小西如清,弟には小西隼人らがいる。
 和泉国堺(大阪府堺市)の薬種商、小西家の一族として京都に生まれたという。はじめ備前国(岡山県)岡山の領主宇喜多直家に仕えていたが、天正8年(1580)頃から豊臣秀吉に仕えた。
 秀吉の下では、室津・塩飽・小豆島を治めた後、天正16年(1588)に肥後国南半の領主としで宇土城主となった。宇土城築城とともに城下町を大規模に整備し、今日における宇土市街地の基礎をつくった。
 文禄元年(1592)に始まる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際しては、先鋒として出陣するが、軍事優先の加藤清正(熊本城主)とは対照的に開戦当初から早期の和平交渉を模索したため,清正との間に深刻な対立を引き起こしたという。
 慶長3年(1598)の秀吉の死後は,徳川家康との関係を重視したとされるが、同5年(1600)の関ヶ原の合戦に際しては石田三成率いる西軍の中心人物となり、戦いに破れて三成や安国寺恵瓊とともに京都で処刑された。遺体はイエズス会宣教師に引き取られたという。その死は当時のヨーロッパで大いに悼まれ、亡くなって7年後の1607年にはイタリアのジェノバで行長を主人公とする音楽劇が作られたほどであった。』
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 近くに中世宇土城跡があるため、こちらは近世宇土城とされています。

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宇土市 宇土城址の桜(2017年)
2017年 4月12日   宇土市 宇土城址の桜(2017年)  近くに中世宇土城跡もあり、間違いやすいのですが、こちらはキリシタン大名・小西行長の居城跡です。小西行長の像のある広い場所を取り囲むように満開の桜が取り囲み素晴らしかったです。今迄あまり気にしなかったのですが、奥を下った所にもまとまった桜を見ることができました。眼下の宇土高校内にも桜が満開でした。 2014年 宇土城址の桜 ...続きを見る
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2017/05/02 10:03

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